2013年10月4日金曜日

吉見義明 1

問題の浮上

一九九一年一二月。はじめて三人の韓国人元従軍慰安婦が、日本政府の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴し、日本人に衝撃を与えたことは記憶に新しい。わたしも、ただひとり本名で名乗り出た金学順が来日直前にNHKのインタビューに答えて、「日本軍に踏みつけられ、一生を惨めに過ごしたことを訴えたかったのです。日本や韓国の若者たちに、日本が過去にやったことを知ってほしい」こ一月二八日、「ニュース21」)とのべたことに、心をうたれ、従軍慰安婦問題の研究をはじめることにした。

従軍慰安婦の存在それ自体は、戦争に行ったことのある元軍人ならだれでも知っていることであった。[...]だが、この問題が女性に対する重大な人権侵害であり、国家犯罪・戦争犯罪につながる性格をおびているものであったことを、わたしたちはどれだけ気づいていただろうか。[...]従軍慰安婦の問題がいままでまったく意識されていなかったわけではない。しかし、問題の重大性についての社会的関心は決して広くはなかった。

「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺隊協)などを中心とする韓国の女性運動によって問題が社会化したのである。
九〇年五月、盧泰愚大統領(当時)の来日に際し、韓国の女性団体は「挺身隊」問題に対する謝罪と補償を求める共同声明を発表した(なお、韓国ではこの時期には挺身隊と慰安婦が同じものとみられていた)。
だが、日本政府は国家・軍の関与を認めようとしなかった。六月六日の参議院予算委員会において、政府はつぎのように答弁している。

従軍慰安婦なるものにつきまして……やはり民間の業者がそうした方々を軍とともに連れて歩いているとか、そういうふうな状況のようでございまして、こうした実態について、わたしどもとして調査して結果を出すことは、率直に申しましてできかねると思っております。

[...]敗戦に際して、日本政府が組織的に公文書を破棄・湮滅したことはよく知られているが、そのため国家が関与した証拠がないとして、このような発言が可能だったのである。

歴史的な事実を否定するこのような日本政府の態度に怒った韓国の女性団体は、一〇月一七日、問題の解決のために、また日本が「真の道義をそなえた民主主義国家」となることを求めて共同声明を発表する。それはつぎのようなものである。


一、日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること。
二、そのことについて公式に謝罪すること。
三、蛮行のすべてをみずから明らかにすること。
四、犠牲となった人びとのために慰霊碑を建てること。
五、生存者や遺族たちに補償すること。
六、こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること。
わたしは九一年三月まで。二年間にわたってアメリカに留学していたため、このような政府答弁が問題になっていることをよく知らなかった。だが。、政府答弁の虚妄はあきらかであった。
実際、わたし自身、留学まえに、日本軍が軍慰安所設置を指示した公文書を防衛庁防衛研究所図書館で確認していた。金学順の発言を聞いて、あらためてわたしは同図書館に通い、関連文書を探した。そして、湮滅を免れた六点の証拠を発見し、新聞に発表することができた(『朝日新聞』九二年一月一一日)。なぜ湮滅されたはずの資料がのこっていたのだろうか。これらは、敗戦直前、空襲を避けるために八王子の地下倉庫に避難させておいたため、連合国軍到着までに焼却がまにあわなかった四二(昭和一七)年までの資料群であった。連合国軍に接収されてアメリカにわたり、のちに返還されて防衛庁防衛研究所図書館に保存されていたのだが、この資料群の中に慰安婦関係の資料があるとはだれも思わなかったために、見過ごされていたのである。その後、多くの人が精力的に資料発掘にとりくんだ。わたしは、政府の第一次資料調査の結果をもとりこんだ資料集を九二年末に刊行した(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』。以下『資料集』と略し、参考のため同書の資料ナンバーを注記する)。また九三年にはわたしも参加する日本の戦争責任資料セッターの独自調査は、六二点の新資料公表という成果をあげることになる。
最初の六点の証拠が公表された反響は大きかった。新聞発表の翌日の一月匸一日、加藤紘一官房長官(当時)は日本軍の関与を認め、一三日には謝罪の談話を発表した。訪韓した宮沢喜一首相(当時)は一七日、日韓首脳会談で公式に謝罪した


従軍慰安婦 P.3-5