2013年10月5日土曜日

Herミュージアム(日本語) Q&A 1

日本軍「慰安婦」とは何ですか。

日本軍慰安婦は、日本が起こした戦争に連れて行かれ、日本軍の性的奴隷にされた女性のことを言います。日本は朝鮮を侵略しただけでは物足りず、アジア全域へ、太平洋の島々まで侵略する戦争を起こしました。このように戦争を仕掛けた日本は、戦争中の日本軍の士気を高揚すると同時に性病を防止するため、1930年代初めから朝鮮とアジアの若い女性たちを強制的に連行し、日本軍慰安婦制度を作りました。

慰安所はどんな所ですか。

日本軍「慰安婦」が強引に閉じ込められ、性的に搾取された場所です。日本軍慰安所は、1932年、中国の上海地域に設置された海軍慰安所が初めてであるとされていますが、実際には、それよりもずっと前に遡ると主張する学者もいます。

実際に、韓国の日本軍「慰安婦」被害者の中には、1931年、中国に連行された方もいました。日本が南京を占領した1937年12月以降になると、日本軍慰安所の設置も本格化していきます。

慰安所は日本、朝鮮、中国、シンガポール、マレーシア、ビルマ(現在のミャンマー)、フィリピン、インドネシア、台湾など、日本軍が戦争をしたり、駐留する先々に設置されました。慰安所は日本軍司令部が直接造って運営に当たることもありましたが、部隊の近くに日本の民間業者、または別途の管理人を置いて軍が統制する慰安所もありました。つまり、慰安所は、日本軍の指揮命令体系と組織的統制の下で、軍人の管理者、民間事業者、または紹介業者と被害女性で構成されていたと言うことができます。ほとんどの慰安所は入り口に「軍票(利用券)」やお金をもらって軍人の出入りを確認する管理人席があり、長い廊下に沿って一人がやっと横になれるような小さな部屋がずらっと並んでいて、これらの部屋で日本軍「慰安婦」は日本の軍人たちに強制的に性的暴行を受けました。

日本軍「慰安婦」はどのように、どこへ連れて行かれましたか。

日本軍「慰安婦」は、シンガポール、ビルマ、台湾、インドネシア、中国、日本、太平洋ラバウル島、パラオなど日本軍がいるところならどこにでも連れて行かされました。しかも、朝鮮の釜山と大邱にも慰安所がありました。当時、日本の植民地にされた朝鮮の人々は非常に苦しい生活を強いられていました。そのため、「工場に就職を斡旋してお金を稼ぐようにしてあげる」、「看護婦にしてあげる」、「勉強ができるようにしてあげる」などとだまして動員することもありました。後になると、朝鮮を支配していた朝鮮総督府が日本軍からの要請を受け、警察と憲兵などを動員して暴力的な方法で女性を強制的に連行することもありました。特に、世事に疎い農村部の人々が多く徴集されました。ある女性は、友達と写真館で写真を撮って出てくる時に警察に連行されたり、精米所の秤で体重を量られ、大人並みの体重だからということでトラックに乗せられ、日本軍「慰安婦」として駆り出された人もいました。

このように日本の植民地だった朝鮮の女性を日本軍「慰安婦」として動員した方法は、非常に恐ろしいものでした。だまされたり、強制連行された女性たちは、慰安所に配属されるまで、日本軍の徹底的な監視を受けました。

日本軍「慰安婦」の生活はどうでしたか

強制的に連行された16~17歳の少女たちにとって慰安婦の生活は言葉では言い尽くすことができないほど酷いものでした。戦場で残酷になった日本の兵隊たちが、まるで獣のように慰安婦の女性たちに性的暴行を加えたため、子宮がメチャメチャにされるほど身体が傷つけられることもありました。あまりの痛さに兵隊を拒否すると殴られ、徹底的に日本軍に監視されたため、逃げることなど夢にも思わなかったのです。慰安婦生活を経験したある女性は、当時の慰安所での生活についてこのように語っています。「私たちはそいつらに動物扱いされた」と。

慰安所に到着した女性たちは、まず最初に名前を奪われました。両親に与えてもらった名前が消える代わりに、3番や5番など部屋番号で呼ばれたり、花子や公子など、日本名で呼ばれることもありました。慰安所によって一日4~5人の兵隊が入ることもありましたが、ほとんどの慰安婦は、通常一日に10人から20人、多い場合で一日に40~50人の相手をさせられたりもしました。兵隊たちが部隊の外で外泊する週末になると、朝から慰安所の前に長い行列ができ、その数を数えることさえできないほどでした。食事の時間を除いて一時もベッドを離れることができないくらいたくさんの兵隊たちが慰安所に押し寄せてきました。通常、女性たちが慰安所に到着する初日は将校たちに強姦され、次の日からは一般兵士に引き渡されました。兵隊たちに逆らうとしてひどく殴りつけられたり、ナイフを突き刺され殺されたりするなど、慰安婦の女性たちにあらゆる乱暴が加えられました。また、戦争中人手不足になると、日中は日本の兵隊たちの洗濯をさせられたり、負傷兵の看護に当たらせられ、夜になると、再び日本の兵隊を相手にさせられました。

たくさんの兵隊を相手にしていたため、性病にかからなかった慰安婦の女性は一人もいないほどでした。しかし、性病にかかると、病院に連れて行かれ、「赤い薬(ヨードチンキ)」を塗っておしまいでした。そのため、慰安婦の女性たちは、赤ちゃんを妊娠することができなくなりました。

慰安婦の女性たちは、逃げたくても、自分がどこにいるかも分からなければ、お金もなく、厳しい監視のため逃げることさえできませんでした。逃げても捕まって引き戻されると、死ぬほど殴られ、顧問されました。場合によっては、他の慰安婦たちの前で殴られることもありました。

日本が敗戦した後、日本軍「慰安婦」はどうなりましたか

日本が第二次世界大戦で敗戦した後、生き残った日本軍は、ほとんど日本に帰国しました。しかし、日本軍は、自分たちの慰安婦に対する戦時中の性犯罪の残酷さを世界に知られることを恐れていました。そのため、日本軍は、獣のように自らの性欲を解消する対象にしていた慰安婦たちを敗戦と同時に生き埋めにしたり、自殺を強要するなど、あらゆる手口で殺ましたが、生き残った何人かは戦場にそのまま置き去りにされました。戦場に残された慰安婦たちは、当時、連合国軍の捕虜収容所に収容された後帰国船に乗ったり、物乞いをしながら数か月をかけて歩いて故郷の家に帰ったり、強制的に徴用された他の朝鮮の人々に助けられて一緒に帰国行列に混じって帰ってくる場合もありました。しかし、多くは日本軍によって殺されたため帰ることができず、ひどい病気にかかってまともに歩けない状態だったり、故郷に帰るすべを知らず、遠い他国に残されたままの場合も数多くありました。

そのため、今も中国には、多くの日本軍「慰安婦」被害者たちが残っているわけです。「慰安婦」生活をしていたことが家族に分かれば追い出されると、とうとう故郷に帰ることを放棄し、残ってしまった慰安婦もいました。これまで「慰安婦」として連行された女性たちが何人で、戦争が終わった後生き残った人は何人なのか、またそのうち帰国したのは何人か、正確に把握されていません。

現在、元日本軍「慰安婦」被害者の方々はどのように暮らしていますか。

韓国に帰ってきた慰安婦被害者たちは、取りあえず実家に戻りましたが、故郷で長く暮らすことはできませんでした。それは、当時の韓国社会の中で、元日本軍「慰安婦」の女性たちが冷たい目で見られていたためです。彼女たちはほとんど故郷を離れて一人で都会に出て住み込みのお手伝いをしたり、食堂の清掃などをしながら苦しい生活を強いられました。一部結婚した女性もいましたが、ほとんど結婚せず一生一人で暮らしました。結婚した女性の場合でも、まだ大人になっていないうちに「慰安婦」生活を余儀なくされたことから健康を悪くしてしまい、子供を持つことができませんでした。また、後になって夫に「慰安婦」だったことが発覚するなど、普通の結婚生活を送ることができなくなることもありました。

日帝強占期(日本帝国による強制占領期=植民地時代)時代に慰安所に連れて行かれ、慰安婦生活を強いられた女性たちは、病気がちになり薬や治療なしでは生きていけなくなってしまいました。

日本の兵隊たちに殴られた後遺症で耳がよく聞こえなくなった女性や腕をしっかり伸ばすことができない女性、日本の兵隊がナイフを振り回した傷跡のため正常な生活ができない女性もいます。このように惨めな生活を送っているにもかかわらず、日本政府からは全く賠償が行われていません。

しかし、1990年から韓国社会では正式に日本軍慰安婦の問題の議論が始まり、日本軍「慰安婦」問題を解決しようとする多くの人々の努力に支えられ、世間の見る目も大きく変わりました。韓国政府は1993年から元慰安婦の女性たちに生活費や医療費支援などを行っています。

水曜デモとは何ですか

日本軍慰安婦だった女性たちが韓国ソウルの日本大使館前で毎週水曜日に行う集会のことです。日本政府に対し、日本軍慰安婦問題の真相究明や公式謝罪、法的賠償などを求めて1992年1月8日から始まりました。この日初めて慰安婦問題に関心を持つよう世の中に訴え、6つのこと(真相究明、犯罪認定、公式謝罪、法的賠償、歴史教科書への記録、追悼碑と資料館設置)を実行するよう日本政府に要求しました。しかし、日本政府は日本軍慰安婦問題に政府と軍が介入したことはなく、民間人が個人的にやったことであると主張しています。

宮沢首相の韓国訪問日に合わせ、1992年1月8日に初めて日本大使館前に集まって首相へ慰安婦問題を解決してくれるよう求める集会を行ったのが水曜デモの始まりです。それ以来、慰安婦問題が解決するまで、毎週水曜日の正午に日本大使館前で集会を行うことにし、これまで14年以上続けられてきました。

水曜デモは、最長時間続けられている集会として世界的にも広く知られています。特に、2004年3月17日には第600回水曜デモを全世界で同時多発的に実施し、世界各地のメディアに取り上げられ注目を集めました。

現在、日本政府は慰安婦問題をどのように解決しようとしていますか

日本政府は日本軍「慰安婦」問題に対して何の反応も示していません。日本政府は、彼らが犯した戦時中の性犯罪の事実を認めようとしないか、責任を回避しようとばかりしています。しかも、元日本軍「慰安婦」の方々に対し、「自ら慰安婦になったか、あるいはどうしようもない戦争の結果だった。」などと妄言をしています。国連などの国際機関では日本軍「慰安婦」問題の原因が日本にあるとし、積極的に解決するよう働きかけていますが、日本政府は全く受け入れていません。それだけでなく、日本史の教科書に慰安婦問題を記述しなかったり、日本軍「慰安婦」を中傷し、偽りの記述を載せた教科書を日本の中学・高校で教材として採択することを黙認しています。

1993年の「河野談話」とは何ですか

1993年8月、河野洋平官房長官が日本軍「慰安婦」に対する日本軍と軍の強制性を認めた談話です。河野長官は、慰安所は、当時軍当局の要請によって設置されたものであり、慰安所の設置、管理および慰安婦の移送に対し旧日本軍が関与していたと発表しながら、日本軍「慰安婦」にお詫びと反省の気持ちを申し上げると述べました。しかし、2012年に政権を握った、当時自民党の安倍総裁は、河野談話と植民地支配、侵略の歴史を謝罪した「村山談話」(1995年)を修正すると主張しており、韓国だけでなく米国の議員らが抗議書簡を送るなど議論を呼んでいます。

過去に起きた日本軍「慰安婦」問題の解決が重要なのはなぜですか

確かにこの問題は、過去の歴史ですが、日本軍に動物以下の扱いをされた日本軍慰安婦の女性たちがまだ生きており、彼女たちが全員なくなる前に必ず解決しなければならない、現在の問題でもあります。過去の誤った歴史を深く反省し、正しい歴史認識を持たなければ、過ちが再び繰り返される可能性があります。

特に、日本軍「慰安婦」問題のように、残酷な戦時中の性犯罪が日本政府によって公式に行われたことに対して謝罪と賠償を受けなければ、日本は自分たちの先祖が犯した過ちを繰り返してしまう恐れがあります。そのような点で日本軍慰安婦問題は、過去の問題で終わるのではなく、現在と未来につながっているのです。

外国の事例からも、いまだに戦争中の国々は、こうした問題は終わっていません。今もボスニア内戦とか、東ティモール独立運動の過程で女性たちは、残酷にレイプされたり、慰安婦と同じように、集団的に性的虐待を受けています。そのため、日本軍「慰安婦」問題は、過去の歴史に限られたものではなく、今も私たちの周辺諸国で経験している問題であり、絶対に起きてはならない問題でもありますので、今のうちに必ず解決しなければなりません。

洋の東西を問わず、戦時中に行われる女性たちに対するこのような犯罪に対しては、その人の魂と生活を両方とも破壊する反人道的犯罪であり、どんなに年月が経っても時間に関係なく、犯罪を犯した者は処罰され、被害者は賠償を受けるべきであると国際法に定められています。