2013年10月5日土曜日

FJ 入門篇 6

6 戦後はどうした?

戦後の処遇は、女性たちの属する民族や連れて行かれた場所によって、違いがありました。中国人やフィリピン人など占領地の女性は主に現地で「慰安婦」など性被害にあいましたが、日本人や、朝鮮・台湾の植民地出身の女性たちは、故国から遠方の占領地や戦場に移送され、「慰安婦」にされたという違いがあるからです。彼女たちは日本軍によって侵略・占領された中国やアジア・太平洋諸島に至る広範囲な地域や、危険な前線にまで連れて行かれたのです。なお、中国人やインドネシア人女性の中にも海外に移送された人がいます。



現地で敗戦を迎えた日本人「慰安婦」は捕虜収容所に入れられた後に帰国した場合もありますが、日本人居留者らとともに引き揚げ船などにより帰国しました(長沢健一『漢口慰安所』など)。しかし、彼女たちの戦後は、苦難にみちたものでした(→証言編:日本人慰安婦へ)。

植民地出身女性はどうでしょうか。朝鮮人女性は、日本軍によって敗戦を知らされず、現地に置き去りにされました。①戦場に遺棄され、死亡したケース、②自力で帰国したケース、③望まないまま現地に残留したケースの3つがあります。



まず①戦場で遺棄され、死亡したケースがあります。ある日、日本軍がいなくなったため敵陣に残され(放置)、地理や言葉もわからず、通用する金銭もなく、危険な状態のまま帰国の術を失い、亡くなった女性たちが多かったと思われます。彼女たちはどうなったのでしょうか。写真は、朝鮮人「慰安婦」の遺体ですが、「壕は女性の遺体で埋まっていた。ほとんどは朝鮮人だった」と記録にあります(1944年、中国の騰越=ビルマ国境地帯)。また1944年暮から1945年春にかけてのフィリピン戦線では、戦況が悪くなり、各部隊がそれまで連れて歩いた朝鮮人「慰安婦」を「ボロ屑を棄てるがごとく」棄てたといわれています(千田夏光『従軍慰安婦〈正編〉』)。こうしたことが、敗戦後もあちこちで起こったと思われます。



②の自力帰国ケースでは、黄錦周さんは中国から、姜徳景さん(日本軍人の子を妊娠中)は日本から自力で帰国しました。朴頭理さんは台湾の慰安所で使い走りをした朝鮮人男性と一緒に帰国しました。朴永心さんは昆明捕虜収容所に収容され、重慶から光復軍とともに朝鮮に帰国しました(→証言編)。中国に連れて行かれた崔甲順さんは、豆腐売りをしながら、歩いて韓国に帰国しましたが、4年間かかりました。帰国がいかに危険で困難であったか、奇跡的なことであったかがわかります。しかし彼女たちの故国での後半生も、厳しいものでした(→入門編7)。



③現地に置き去りにされたケースも少なくありませんでした。たとえば、中国の内陸部にある武漢の例をみてみましょう。武漢には1938年11月に開設された中国最大の日本軍慰安施設が積慶里にあり、約20軒の慰安所に日本人女性130人、朝鮮人150人女性が「慰安婦」にされていたといいます(山田清吉『武漢兵站』)。長沢健一軍医大尉によれば、日本人「慰安婦」たちは、敗戦の翌春、府県単位に組み込まれて引き揚げ船で帰国しました(長沢『漢口慰安所』)。同氏は、朝鮮人「慰安婦」は光復軍とともに故国に引き揚げた模様といっていますが、必ずしもそうではありませんでした。



書映1 中国連行 武漢で「慰安婦」にされた宋神道さんは日本人元軍曹に誘われて日本に渡りましたが、軍曹に日本で棄てられました。河床淑さんなどのように、「恥意識」から迷っているうちに帰国する術を失い、意志に反して武漢周辺に留まった女性が多数いました(その数は、河さんによれば1950年代後半に32人、1990年代には9人でした〔『中国に連行された朝鮮人「慰安婦」たち』〕)。



また、中国東北地方(いわゆる満洲)に連行された朴玉善さん、李玉善さん、金順玉さん、シンガポールに連行されタイに残留した盧寿福さん、沖縄・渡嘉敷島に連行された裵奉奇さんなどをはじめ、かなりの数の朝鮮人女性が現地に留まらざるをえませんでした(『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」』)。彼女たちが、韓国政府や支援団体などの助力により帰国を果たしたのは、半世紀を過ぎた1990年代、または2000年代に入ってからです。台湾人女性もまた同様でした。



私たちが証言を聞けるのは、苦難のなかで運よく帰国できたり、現地に残留して生き延びたりした、まさに「サバイバー(生還者)」と呼ぶにふさわしい、被害女性がいたからです。



このように、日本軍は、日本人「慰安婦」を帰国させましたが、自ら立案・実行した「慰安婦」制度により植民地から戦地・占領地に連れて行った朝鮮人や台湾人の元「慰安婦」を帰国させる手だてをとりませんでした。日本軍・日本政府の戦後責任・植民地責任の放棄は、戦争直後の置き去りからはじまります。
画像 wam置き去り
戦後補償からの置き去り

1990年代に入って、韓国などアジアの被害者が次々と証言をするまで、日本政府は半世紀以上も放置・黙殺してきました。日本政府が軍関与を公式に認めたのは、1991年8月14日に、金学順さんが韓国ではじめて実名で顔を出して証言をはじめ、1992年1月に軍の深い関与を示す資料が防衛庁防衛研究所図書館に存在したことが報道されてからです。しかしその後も日本政府は、帰国できなかった元「慰安婦」サバイバー(生還者)への帰国措置をとりませんでした。



戦後補償に関してはどうでしょうか。日本政府の戦後補償政策では日本人男性元軍人・軍属に対して「国家補償の精神に基づき」個人補償(軍人恩給)が1952年から実行されました。これに対して、「慰安婦」には、日本政府による個人補償はなされていません。1995年に日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金、またはアジア女性基金)を創設しましたが、これは民間からの募金による「償い金」であり、国家補償ではありません。ここにも日本人軍人・軍属との著しい落差があります。戦後補償からも“置き去り”にしたのです。



<引用・参考文献/映像>

・千田夏光『従軍慰安婦〈正編〉』三一書房、1978年

・梁鉉娥「植民地後に続く韓国人日本軍「慰安婦」被害」アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅱ』明石書店、2010年

・山田清吉『武漢兵站』図書出版社、1978年

・長沢健一『漢口慰安所』図書出版社、1983年

・韓国挺身隊問題対策協議会・韓国挺身隊研究会編、山口明子訳『中国に連行された朝鮮人「慰安婦」たち』明石書店、1996年

アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)カタログ『置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」』2006年

・安世鴻(著・写真)『重重—中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の物語』大月書店、2013年

・ピョン・ヨンジュ監督『ナヌムの家』1995年