2013年10月5日土曜日

FJ 10 Q&A

1 朝鮮で強制連行は?

安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、といっています(2007年3月5日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れてこられたという証拠はないといっています(2012年8月21日記者会見)。



安倍首相も橋下市長も、①軍・官憲による、②暴行・脅迫を用いた連行(法律用語では略取)という、二つが重なっていなければ、強制連行ではないといっています。ここに大きなごまかしがあります。



日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、この業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(だましたり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行っている女衒(ぜげん)とよばれる人たちだったので、彼らは「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。



これは刑法第226条に違反する犯罪です。また、強制とは本人の意思に反してあることを行わせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も本人にとっては経済的強制ですから、強制連行というべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大だということになります。この単純・明白なことを安倍さんも橋下さんも見ようとしていないのです。



朝鮮・台湾から女性たちが誘拐や人身売買で海外に連れて行かれたという証拠は、被害者の証言以外はないのでしょうか。そんなことはありません。たくさんあるのです。いくつか挙げてみましょう。

第1にアメリカ軍の資料があります。アメリカ戦時情報局心理作戦班が作成した、今では有名な「日本人捕虜尋問報告」第49号(1944年10月1日)です。誘拐や人身売買で多数の朝鮮人女性がビルマに連れて来られた、とつぎのように記録しています。

一九四二年五月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性たちを徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』資料99、大月書店)

これは国外移送目的誘拐罪に該当します。また、200-300円程度の前借金を渡していることから、国外移送目的人身売買罪にも該当します。この米軍の記録では、約700名の朝鮮人女性が騙されて応募し、6ヵ月から1年間、軍の規則と業者のための役務に拘束された、この期間満了後もこの契約は更新された、と記されています。軍を主とし、業者を従とする犯罪だというほかないでしょう。これを強制連行といわなければ何というのでしょうか。



朝鮮人女性が誘拐されてビルマのラングーンの慰安所に連れてこられたという記録をみてみましょう。小俣行男元読売新聞記者の回想です(小俣『戦場と記者』冬樹社)。1942年にラングーンに朝鮮から40~50名の女性が上陸します。慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、というので大喜びで彼は慰安所に行きます。ところが実際に小俣さんの相手になった女性は23、24歳の女性で、「公学校」で〔正確には1941年以降は初等学校は朝鮮でも国民学校とよばれていた〕先生をしていたというのです。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女はだまされて連れてこられたと語っているのです。これは誘拐です。

その女性の話によると16、7歳の娘が8名いて、「この商売は嫌だと泣いています。助かる方法はありませんか」とこの読売新聞記者に相談します。考えた末に、「憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい」「これらの少女たちが駆け込めば何か対策を講じてくれるかも知れない。或はその反対に処罰されるかもしれない。しかし、今のビルマでは他に方法はあるだろうか」と彼は答えます。

この少女たちは憲兵隊に逃げ込んで救いを求め、憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って結局8名の少女が将校クラブに勤務することになったというのです。その後少女たちがどうなったのか。この少女たちは朝鮮に送り帰されていないようです。国民学校の元先生はどうなったのでしょうか。そのまま慰安所に入れられており、解放されていません。連れて行った業者も逮捕されていません。こういう状況がまかり通っていたのです。

第3航空群燃料補給廠の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆さんは、次のように語っています。

私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。

「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」

彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。(青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒』私家版、東京都)

これは、誘拐と人身売買が重なっているケースですね。

畑谷好治元憲兵伍長は、中国東北の琿春の慰安所に入れられた朝鮮人女性たちの身上調査をしていますが、その時のことを次のように回想しています。

私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった。……女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、また、親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた。(畑中好治『遥かなる山河茫々と』私家版、京都市)

これも、誘拐と人身売買がかさなったケースといえるでしょう。

朝鮮の女性たちが、誘拐か人身売買で連行されたことは秦郁彦さんも認めています。秦さんの著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社・1999年)では、彼が「信頼性が高いと判断してえらんだ」元軍人などの証言が9例あげられています。4例が朝鮮人女性のケースですが、3例が誘拐、1例が人身売買です(ほかに日本人女性の誘拐が2例、略取が1例、ビルマでの未遂が1例、シンガポールでの募集が1例)。

そのうち、ひとつを紹介しますと、鈴木卓四郎元憲兵曹長は、南寧の慰安所の若い朝鮮人業者(地主の次男坊だった)から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」と聞いて地元の小作人の娘を連れて来たと聞いています。この青年は「<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった」と述べていますので、業者もだまされたというケースです。これは軍がだました誘拐ということになります。

なお、朝鮮で軍・官憲による暴行・脅迫をもちいた連行(略取)があったかどうかですが、被害者の証言はかなりの数あります。これを裏づける他の文書・記録や証言はいまのところ、見つかっていません。しかし、1件もなかったということを証明する証拠もありません。

1941年、対ソ戦準備のために関東軍特種演習(関特演)という名目で、陸軍の大動員が行われます。この時、2万人の「慰安婦」を徴募するという計画がたてられ、多数の女性が朝鮮から動員されます。この時集められた人数は、千田夏光さんが原善四郎関東軍参謀から聞いたところでは8千人、関東軍参謀部第3課兵站班にいた村上貞夫さんの証言では3千人くらいだったということです(村上さんから千田夏光氏への手紙、VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録』3巻、緑風出版、所収)。

そうだとすれば、かつて秦郁彦さんがいっていたように、「結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)のルートで割り当てを下へおろしたという。……実状はまさに「半ば勧誘、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる」(秦『昭和史の謎を追う』下巻、文藝春秋、1993年)という事態があった可能性があります。関東軍・朝鮮軍・朝鮮総督府の資料は多くが焼却され、ほとんど残っていませんが、関係者の資料が出れば、はっきりするかもしれません。これは今後の究明をまたなければなりません。